亀山湖・牛久沼は首都圏近郊のワカサギ釣り場をめざします

ワカサギふ化放流ノート
徳川家康の東金鶴御成及び明治時代の雄蛇ケ池猟區考察
Togane Grus going out of Ieyasu Tokugawa and Study of the hunting area of Onjagaike pond of the Meiji era.
【概要】
雄蛇ケ池(千葉県東金市)は、1614(慶長19)年に完成した、大規模な灌漑用溜池である(※14)。
本報では、よしさんが所蔵する1892(明治25)年の雄蛇ケ池関係地方文書(じかたもんじょ)及び絵図面を初公開する。
この地方文書は狩猟分野に属するところから、先ず「やや長い前置き」で東金御成街道造成と東金御鷹場における狩猟実績を 簡単に眺めて見る。
次に、徳川家康と薬学書について、よしさん架蔵書を引いて考察し、また東金を訪れた漢詩人梁川星巌にも触れる。
本題では幕藩時代より明治時代中期にいたる狩猟制度史を概観し、雄蛇ケ池関係地方文書から導ける以下の諸点を検討する。
(1)『官有地水面拝借願』『猟區設定願』「雄蛇ケ池絵図面」の相対的位置
(2)狩猟免許人員は何人であったか
(3)狩猟対象鳥獣は何であったか
(4)1892(明治25)年10月における、雄蛇ケ池の水面積
(5)馬捨場について

【やや長い前置き】
千葉県船橋市から東金市へ東西に、ほぼ一直線に続く道は、御成街道と呼ばれる。
御成街道は、徳川家康が東金御鷹場(幕府直轄)で鷹狩りをするため、重臣土井利勝(老中・佐倉城主・千葉県佐倉市)を 中原御殿(神奈川県平塚市)に呼び、1613(慶長18)年12月12日、造成を命じたとされ(『東金市史』通史篇上六,1298-1299pp・※12)、 翌1614(慶長19)年01月09日、73歳の家康は御成街道を辿り東金に到着している(※12・※18・※19)。
東金から先、九十九里浜の小松(旧成東町現山武市小松)へ続く御成新道は、土井利勝の命を受けた東金代官・嶋田治兵衛(伊伯)が工事監督し、御成街道と同時に完工したとされ (同,1299pp, ※12)、嶋田治兵衛(伊伯)は10年に亘る雄蛇ケ池築造工事の完成直前に、新規道路開設工事も重複して担っていたことが判明する。

東金における鷹狩りの獲物は、
(1)1614(慶長19)年01月09日:鶴4羽
(2)1614(慶長19)年01月10日:鶴5羽・雁18羽・鴨7羽
(3)1614(慶長19)年01月11日:鶴6羽・雁16羽
(4)1614(慶長19)年01月12日:鶴3羽、と記載され(『東金市史』通史篇上六,1165-1166pp・※12)、 当地にカノシシ(鹿・猪)が多く、農作物を荒らされ農民が困っていることを知った家康は、 12日に土井利勝等に命を出し、吉田(印旛郡印旛村)・佐倉(佐倉市)附近で
(5)1614(慶長19)年01月13日:鹿2頭・猪4頭、を狩らせている(同,1166pp, ※12)。
家康は09日から15日迄の東金滞在中に、鶴112羽・白鳥8羽(同,1167pp, ※12)・他を得たとある。

高齢の家康は、 金陵(明)から長崎に輸入された『本草綱目』(金陵本・成立は1578・万暦6年)を、駿府に取寄せ愛読し、 江戸の秀忠へ贈る(紅葉山文庫に現存)とともに、 国内で増刷(和刻本・※01・※10)を推奨したほど薬学にも通じていた。
「特に鶴の肉は長寿の薬として最高のものと珍重されていたようだ」(同,1151pp, ※12)、 「鶴は最高の獲物であり、中でも丹頂鶴は珍重されていた」(同,1160pp, ※12)と、東金へは鶴を目的とする 鶴御成であったことが解かる。
そこで、薬学書『本草綱目』の鶴及び鵠(白鳥)の記述を、よしさん架蔵書から示せば、以下の通りである(fig.01・和刻本・※01)。

fig.01,『本草綱目』の鶴及び鵠(白鳥)の記述部分(よしさん架蔵書)

fig.01 鶴及び鵠『本草綱目』和刻本・第四十五巻
(よしさん架蔵書)

fig.02 鶴及び鵠『頭註国訳本草綱目』第十一冊
(よしさん架蔵書)

fig.02,『頭註国訳本草綱目』第十一冊(介部・禽部,)の鶴及び鵠(白鳥)の記述部分(よしさん架蔵書)

また、『本草綱目』(漢文・fig.01)を読みやすく、後年に和訳した、『頭註国訳本草綱目』第十一冊(介部・禽部,)から、 鶴(141-143pp)及び鵠(白鳥・166-168pp)を上に示した(fig.02 ・※10)。
李 時珍は『相鶴經』を引き千六百年の長寿とし、兪淡を引き「多寿無死」と書き、血・脳・卵・骨の味・処方・効能を 記述しており、丹頂鶴は長寿の薬として珍重されていた事情がわかる(fig.01-fig.02)。
しかし、『本草綱目』を見る限り、家康は、東金市史の筆者の言う「肉」(前述・※12)や、 一般に漠然と言われる「(各種)鳥肉」ではなく、薬の対象として狭義に鶴の「血・脳・卵・骨」を最重要視していたと考える ことがより正確であると指摘しておく。

天下人が長寿の薬として丹頂鶴を入手するため、東金に幕府直轄の御鷹場を設定し、鷹狩りをするとなれば、 日頃から御鷹場管理のため御禁制を敷き、鳥役人を配すことが常法であった。
御禁制を破り、鶴を捕え食べたと見なされた者に対する、刑罰は厳しいものと容易に推定されるが、ここでは 東金御鷹場以外で起きた「怨恨の地 鶴殺し跡」の事例を挙げておこう。


文村は1615(元和元)年土井利勝(大炊頭)の所領にして、1624〜(寛永)年中より1641(寛永18)年までは徳川氏の直轄(代官伊奈半十郎)、 1642(寛永19)年より1659(万治2)年までは下総佐倉城主堀田上野守の領分、1660(万治3)年再び徳川氏の所領になり、 1870(明治3)年廃藩置県により葛飾県となり、1871(明治4)年印旛県となり、1873(明治6)年6月千葉県となり、 1875(明治8)年5月茨城県北相馬郡となった(現、茨城県北相馬郡利根町)。
文村大字押付新田の開墾者鈴木佐右衛門景頼(布川城主豊島紀伊守の臣)の長男左十郎に弟忠兵衞と妹がおり、妹の夫を太郎左衞門と云った。
1677(延宝5)年11月、鳥番の役人群平は忠兵衞・太郎左衞門の鶴殺しを、老中新堀重郎にに訴え、 以下の判決が下された。
一、押付新田佐右衛門、忠兵衞、太郎左衞門の三人御法度を破り鶴を殺し養生抔致し侯儀 不届に付獄門に行ふべきの所格別の勘弁を以て家族一同死罪仰せ付る者也。
一、太郎左衞門倅太郎吉、妻とよ儀当月自家豊田村久兵衛引取に付き、親久兵衛に五貫文の過料。
『北相馬郡志』(※09)より抜粋・要約

東金御鷹場とは場所も相違するが、同時代であり、土井利勝・佐倉藩関連の地、文村の史実から、 鶴がどれほど珍重されていたのかが明瞭になる。
悲しいことに、処刑後に鶴を殺したことの冤罪であったことが判明し、押付新田刑場跡に建つ 一族の石塔が今も涙を誘うと云う。

家康が滞在した東金御殿は1613(慶長18)年建築とされ、隣接の八鶴湖(東金市東金字谷)も同時期の完成と見られる。
当初は地名の谷(やつ)から谷池と称され、1760(宝暦10)年頃より御殿前池(御殿池)、 1841(天保12)年05月(01〜04日か)、詩人梁川星巌が銚子から海路で東金を訪れる直前に、玉池吟社詩集の編輯も担当した 高弟の遠山雲如(雲如は江戸の人)が、八は谷(やつ)に通わせ、徳川家康・秀忠らの鶴御成りから鶴を添え、八鶴湖と命名したと云われる(※03・※12)。
よしさん架蔵書から、「星巌先生五十歳小像」及び星巌の詠んだ「東金八鶴湖部分」の漢詩を挙げておく(fig.03, ※02・※03)。

fig.03 「星巌先生五十歳小像」及び
「東金八鶴湖」部分
fig.03,星巌集より「星巌先生五十歳小像」及び「東金八鶴湖」部分(よしさん架蔵書)

星巌は浪淘集に「遠山雲如、河野士貞ト同シ、八鶴湖ニ遊ブ 湖ハ東金郭外ニ在リ 春夏之交遊人最盛ナリシト云フ」(読み下し:よしさん)と説明し、 続けて有名な「東金郭外小西湖」の漢詩を詠んだ(fig.03, ※03)。
往時、東金〜九十九里〜市原〜茂原〜夷隅〜鴨川方面に鶴が多く飛来したことは、現在も千葉県内各地に残る地名、 鶴蒔(つるまき・東金市宮)、鶴舞(市原市)、鶴枝(茂原市)、鶴ケ城(椎木堰・いすみ市・※14)、高鶴山(鴨川市・標高326m)等から窺い知れる。

【雄蛇ケ池関係地方文書及び絵図面】
前置きは終り、いよいよ本題に入ろう。
徳川家康の東金における鷹狩りから278年後、1892(明治25)年の雄蛇ケ池関係地方文書及び絵図面(よしさん所蔵)を、 以下に初公開する。
(1)上総國山邊郡大和村(1892):地方文書『官有地水面拝借願』和紙墨書一部朱書,本文2丁,雄蛇ケ池絵図面付,(fig.04)
(2)上総國山邊郡大和村(1892):地方文書『猟區設定願』和紙墨書一部朱書,本文1丁,(fig.04)
(3)解読:よしさん(2012):『猟區設定願』『官有地水面拝借願』(fig.05)
(3)上総國山邊郡大和村(1892):地方文書『官有地水面拝借願』,雄蛇ケ池絵図面,(fig.06)

fig.04,『猟區設定願』『官有地水面拝借願』原史料(よしさん所蔵)

fig.04 『猟區設定願』『官有地水面拝借願』(原史料2通)
fig.05 『猟區設定願』『官有地水面拝借願』(解読2通)
fig.05 『猟區設定願』『官有地水面拝借願』解読:よしさん

文書は、右に始まり(初丁)、左に終わる(3丁裏)。
毛筆手書原文のうち、「廿」は「二十」に置換し、「後藤象次郎」は「後藤象二郎」に、よしさんが校正した。
同一単語で表記の相違する箇所は、原史料のままとした。
2丁裏と3丁表の間に、雄蛇ケ池絵図面があり(fig.06)、全体は紙縒り1ケ所(右辺縦中央)留めである。

fig.06 雄蛇ケ池絵図面
(よしさん所蔵)
fig.06 雄蛇ケ池絵図面(よしさん所蔵)

【考察】
上記の『官有地水面拝借願』『猟區設定願』「雄蛇ケ池絵図面」(fig.04-fig.06)を理解するため、幕藩時代より 明治時代中期にいたる狩猟制度史を概観して見る(table.01)。
年 代 制度・内容 狩猟対象鳥獣
(保護対象鳥獣)
江戸時代 必要により定・法度・禁制を藩内(ローカル)で実施 ●将軍家が鷹狩りで
ツル・ハクチョウ・カモ等を捕獲
●大名が自領内で鷹狩り
●有害獣シシ(イノシシ・カノシシ)
を銃で駆除
1872(明治5)年〜 銃砲取締規則
「銃砲取締規則」明治5年1月29日太政官第28号布告
銃砲取締規則別紙之通被定侯条来ル4月ヨリ規則之通可相守事
(別紙)
第1則「大小銃並ニ弾薬類商売ノ儀ハ府県共定員商売ノ外取扱致間敷
右定員ノ商売ハ其地方管庁ニ於テ精選ノ上免許状可差遣事
但東京大阪ノ儀ハ武庫司ニ於テ管轄スヘキ事
免許商売ノ定員
一 府下  各5員
一 県下  各3員
一 鎮台本分管下  各1員
但府県庁下開港場等ニアルハ別ニ設ケス
一 開港場  各5員
右免許差遣侯商売ノ姓名住所等東京武庫司ヘ届クヘキ事」
●本家本元・鎮台(旧兵部省のち
陸海軍)を含む銃砲弾薬類を規定
●第6則に銃猟免許制規定
1873(明治6)年〜 鳥獣猟規則
「鳥獣猟規則」明治6年1月20日太政官第25号布告
「改正鳥獣猟規則」明治7年11月10日太政官第146号御達
第1条「小銃ヲ用テ鳥獣ヲ猟シ生活トスル者ヲ職猟トシ遊楽ノタメニスルヲ
遊猟トス」
願出による免許・鑑札制度で職猟壱圓遊猟拾圓の銃猟税を納付
●小銃猟に限定
●銃猟禁止場所・期間・時間を規定
●狩猟(保護)鳥獣名は規定なし
1892(明治25)年〜 狩猟規則
「狩猟規則」勅令明治25年10月05日第84号
第1条「此規則ニ於テ狩猟ト称スルハ銃器、各種ノ網、放鷹、黐縄、又ハ
ハコヲ以テ鳥獣ヲ捕獲スルヲ謂フ」
第7条「免状ヲ分チテ職猟免状、遊猟免状トシ更ニ分チテ各甲乙ノ二種
トス」「職猟免状ハ生計ノ為ニ狩猟ヲ為ス者ニ下付シ 遊猟免状ハ
遊楽ノ為ニ狩猟ヲ為ス者ニ下付スルモノトス」
「甲種免状ハ銃器ヲ使用セスシテ狩猟ヲ為ス者ニ下付シ 乙種免状ハ
銃器ヲ以テ狩猟ヲ為ス者ニ下付スルモノトス」
第9条「免状ヲ受クル者ハ左ノ区別ニ従ヒ免許料ヲ納ムヘシ」
「職猟免状(甲種金五十銭)(乙種金壱圓)」
「遊猟免状(甲種金五圓)(乙種金拾圓)」

第16条「日本臣民ニシテ猟區ヲ設定セント欲スル者ハ 十箇年以内ノ
期限ヲ定メ地方長官ヲ経由シテ農商務大臣ニ願出テ免許ヲ受クヘシ」
第17条「官有ノ森林、原野、水面ヲ借用シテ猟區ト為サント欲スル者ハ
 管轄官庁ニ願出テ許可ヲ受クヘシ」
第18条「一猟區ノ面積ハ 千五百町歩ヲ以テ最大限トシ 一箇年金拾圓
ノ割ヲ以テ免許料ヲ納ムヘシ 連続ノ面積最大限ヲ越ユルトキハ其越ユ
ル所百町歩マテ毎ニ 一箇年金壱圓ノ割ヲ以テ免許料ヲ増納スヘシ」
第24条「左ニ掲クル鳥獣ハ捕獲スルコトヲ禁ス」
一鶴各種  一燕各種  一雲雀  一鶺鴒  一四十雀  一日雀
一五十雀  一葦雀  一ミソサザイ  一杜鵑  一啄木  一ヒタキ
一椋鳥  一田ヒバリ  一一歳以下ノ鹿
第25条「左ニ掲クル鳥獣ハ3月15日ヨリ10月14日マテヲ保護期トシ
其期間捕獲スルコトヲ禁ス」
一雉  一ヤマドリ  一鶉  一鴻雁  一鳧各種  一鴫各種
一鷭  一鵠  一ヒヨ  一鶫  一鷺各種  一鳩各種
一鵙  一橿鳥  一クイナ  一鹿  一羚羊  一兎
●銃猟以外の猟法も規定
●銃猟禁止場所・期間・時間を規定
●私人猟區設定可となる
●保護鳥獣名を条文に明記する
●罰則規定あり
●(通年保護対象鳥獣)
  鳥14属種・獣1種(左欄参照)
●(期間限定保護対象鳥獣)
  鳥15属種・獣3種(左欄参照)
1895(明治28)年03月〜 狩猟法
「狩猟法」明治28年03月20日法律第20号
朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル狩猟法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシ
御 名  御璽
第1条「此法律ニ於テ狩猟ト称スルハ銃器、各種ノ網、放鷹、黐縄、又ハ
ハコヲ以テ鳥獣ヲ捕獲スルヲ謂フ」
第9条「免状ヲ受クル者ハ左ノ区別ニ従ヒ免許税ヲ納ムベシ」
一等「所得税15圓以上若ハ地租200圓以上納ムル者
(甲種金5圓)(乙種金10圓)」
二等「所得税3圓以上若ハ地租40圓以上納ムル者
   又ハ一等ニ相当スル者ノ家族
(甲種金1圓50銭)(乙種金3圓)」
三等「一等二等以外ノ者
(甲種金50銭)(乙種金1圓)」

第17条「保護ヲ必要トスル鳥獣ヲ捕獲シ又ハ之ヲ販売スルコトヲ禁ズ
但シ捕獲ノ禁止又ハ停止以前ニ於テ捕獲シタル鳥獣ハ其禁止又ハ停止
ノ日ヨリ2週間以内ニ於テ販売スルハ此限リニ在ラズ」
「飼養ニ係ル保護鳥獣ハ前項期日後トイエドモ農商務大臣定ムル所ノ
規則ニ依リ販売スルコトヲ得」
「捕獲ヲ禁止シ又ハ停止スベキ保護鳥獣ノ種類及期限ハ農商務大臣
之ヲ定ム」
第24条「狩猟ニ関スル従前ノ規則ハ此法律施行ノ日ヨリ廃止ス」
「此法律施行以前設定ノ免許ヲ受ケタル猟區ハ其ノ免許期限間効力
ヲ有スルモノトス」

狩猟法施行細則
「狩猟法施行細則」明治28年03月27日農商務省令第4号
第14条「左ニ掲グル鳥類ハ捕獲スルコトヲ禁止ス
一鶴  一燕(岩燕ヲ除ク)  一小雀  一日雀  一四十雀
一五十雀  一柄長  一ミソサザイ  一杜鵑  一郭公  一三光鳥
第15条「左ニ掲グル鳥類ハ3月16日ヨリ10月14日マデ捕獲
スルコトヲ停止ス
一雉  一ヤマドリ
第16条「左ニ掲グル鳥類ハ4月16日ヨリ8月14日マデ捕獲
スルコトヲ停止ス
一鶺鴒  一椋鳥  一ヒタキ  一雲雀  一ヒヨ  一鵙
一小啄木  一雷鳥  一エゾヤマドリ  一鳩(ドバトヲ除ク)
第17条「牝鹿ハ10月1日ヨリ7月15日マデ 牡鹿ハ10月
1日ヨリ11月30日マデ捕獲スルコトヲ停止ス

●免許を2種3区分計6種に細分
●私人猟區設定を廃する
(猟區は免許期限まで有効)
●(通年保護対象鳥類)
  鳥11属種(左欄参照)
●(期間限定保護対象鳥類)
  鳥2属種(左欄参照)
  鳥10属種(左欄参照)
●(期間限定保護対象獣類)
  獣1種(左欄参照)

table.01 狩猟制度創設及び制度の初期変遷並びに狩猟対象鳥獣と保護対象鳥獣

(1)『官有地水面拝借願』『猟區設定願』「雄蛇ケ池絵図面」の相対的位置
上に掲載した「狩猟制度創設及び制度の初期変遷並びに狩猟対象鳥獣と保護対象鳥獣」(table.01)の、 「狩猟規則」勅令明治25年10月05日第84号の項、 第16条「日本臣民ニシテ猟區ヲ設定セント欲スル者ハ 十箇年以内ノ 期限ヲ定メ地方長官ヲ経由シテ農商務大臣ニ願出テ免許ヲ受クヘシ」、及び 第17条「官有ノ森林、原野、水面ヲ借用シテ猟區ト為サント欲スル者ハ  管轄官庁ニ願出テ許可ヲ受クヘシ」、並びに第18条(条文は上記参照)の規定により、 『官有地水面拝借願』『猟區設定願』「雄蛇ケ池絵図面」(fig.04-fig.06)が、作製申請されたものと理解できる。
尚、その後の法令改廃により、新規猟區設定申請は、結局、1892(明治25)年10月〜1895(明治28)年03月 までの僅か3年弱であった。
また、設定された猟區の廃止期限は、設定時の期限まで有効とされたから、雄蛇ケ池猟區は、1892(明治25)年11月 15日より1902(明治35)年11月14日までの10年間設定されていたものと推定される。
よって、『官有地水面拝借願』『猟區設定願』「雄蛇ケ池絵図面」(fig.04-fig.06)は、日本の歴史上、前述の3ケ年弱の期間 内にのみ各地で作製された地方文書のひとつであることが明確になった。

今、『東金市史』別冊歴史年表(※12a・225-226pp)の1892(明治25)年該当ページを見ると、本件雄蛇ケ池猟區設定に関する 地元動向の記載がなく、歴史の狭間に忘却されつつあるようで残念だ。
将来、東金市歴史年表刊行の機会があれば、収録記載されて然るべき事項と指摘しておく。

(2)狩猟免許人員は何人であったか
前項で明確になった雄蛇ケ池猟區は、客(狩猟免許人)を呼び狩猟料金を徴収し、猟區免許料の支払いに充てていた。
そこで、雄蛇ケ池に猟區が設定されていた10年間の前後当時、現東金市(を含む一帯)の狩猟免許人員は何人であったかも 気になっていた。
本地方文書関連事項「明治時代の東金市における狩猟対象及び狩猟実績について」を千葉県立図書館メールレファレンスに 質問したところ、千葉県立中央図書館千葉県資料室より「お探しの期間の東金市の狩猟対象・狩猟実績については、 分かりませんでした」との回答を頂戴した(受付番号:3837 回答日:2012年06月24日)。
同時に、「狩猟免許人員」を含む調査内容も回答されたので、以下に要点をまとめてみた(table.02)。

時期 狩猟免許人員・内容 出典
1889(明治22)年 山辺武射郡役所管内
●総数148(職猟148・遊猟0)
藤井隆至編(1997):
「狩猟人員」『明治前期 千葉県 東京府の統計』,
122pp,東洋書林,
1902(明治35)年 ●狩猟免許人員所轄別(明治35年度)
東金
甲種3等10・乙種2等10・乙種3等82
●狩猟免許人員御猟場其他所轄別
(明治36年12月31日)
東金
禁猟区なし・禁銃猟区2箇所725,375坪
・共同狩猟地なし
千葉県(1904):
「狩猟免許人員」『千葉県統計書 明治36年 第4巻(警察之部)』,
74pp,千葉県,

table.02 明治時代の東金市及び近傍における狩猟免許人員

「明治時代の東金市及び近傍における狩猟免許人員」(table.02)から、 狩猟免許人員の概略は、1889(明治22)年に、山辺武射郡の職猟者148名、1902(明治35)年に、 東金管内の狩猟免許者(延べ)102名であった。
また、上表(table.02)の、1903(明治36)年12月31日・東金管内の項に、「共同狩猟地なし」とあるのは、 前項で述べた雄蛇ケ池猟區の廃止期限が、1902(明治35)年11月14日までの10年間であったことを 裏付けている。

(3)狩猟対象鳥獣は何であったか
徳川家康の東金における鷹狩り以降、家康が長寿の薬と信じた鶴は、いつの時代まで狩られ、賞味されたの であろうか。
郷土資料的観点から「明治時代の東金市における狩猟対象及び狩猟実績について」を専門家に質問し、 「お探しの期間の東金市の狩猟対象・狩猟実績については、分かりませんでした」との回答を得たことは、 前項に述べた。
そこで、幕藩時代より明治時代中期にいたる狩猟制度史を概観すべく一覧表(table.01)を作製したところ、 法制度的には、1892(明治25)年10月05日勅令第84号「狩猟規則」布告までは、鳥獣保護という概念 が一般化しなかったように見受けられ、保護鳥獣名の規定がなされていない。
従って、狩猟免許者は、ある程度(場所・時間帯・期間等規制あり)自由に、(鶴を含め)いずれの鳥獣をも狩ることが可能 であったと考えられる。

一方、狩猟実績面では、鳥獣の種ごとの、信頼のおける猟獲記録は未発見である。
「鶴は、1751〜1764(宝暦)年頃まで飛来したが、以降は(南総地域で)見かけなくなった」とする他書を引き、 「近世中期以降、上総地方には鶴などの飛来が少なくなったようである」(※12・1274pp)とする見方があるが、 よしさんの調査の範囲において、千葉県いすみ市の灌漑用溜池・鶴ケ城に、1995(平成07)年12月、シベリアからナベヅル4羽が飛来し越冬した記録があり(※14)、 千葉県印西市の水田に、2011(平成23)年12月、ソデグロヅルが飛来し、2012(平成24)年03月21日まで越冬した事例(※21・※22)が あり、飛来・定住が近世中期以降に途絶したわけではない。


「以書付奉願上候
       第九大区一小区
       上総國武射郡木原村
       願人農
         土屋清吉
         明治七年四十五歳三ケ月
威銃願
  但和銃玉目三匁壱挺
右奉申上候、私所持筒之儀壬申四月中御改以来発砲御差止ニ付堅
ク相慎罷在侯処、當村之儀は山野間之地所ニて、鳥獣多蔓田畑作毛
を荒し、然ル処當田方苗代種蒔付、尚又夏季ニは畑作物、秋季ニ至
リ侯ては田方稲穂等え鳥獣多出被喰荒、乍恐貢租ニも相拘リ侯哉
も難計、村内一統難渋至極仕侯ニ付、右鉄砲鳥獣威シニ空発仕度、
依之本月ヨリ来ル十一月三十日限り御免許奉願上度、何卒格別之以
御仁恤、右願之通御聞届被 成下置候ハは難有仕合ニ奉存候、
以上
  明治七年五月
    右願人 土屋清吉 印
    副戸長 宍倉兵蔵 印
千葉県令 柴原 和殿」

table.03 「木原村土屋清吉鳥獣威し銃免許願」『山武町史』(原文は縦書き)

また、鳥獣の種は不明ながら『山武町史』に「木原村土屋清吉鳥獣威し銃免許願」があり(table.03 ※11)、 1874(明治07)年に木原村(現千葉県山武市木原)の田畑も鳥獣に喰い荒らされていることが、傍証としてわかる。
して見ると、鶴は1892(明治25)年まで何度も飛来し続けていたと考えることが自然であろう。
これを踏まえ、東金市近傍で、合法的に野生の鶴が狩られ、賞味されたのは、少なくとも、1892(明治25)年10月04日 までと言えよう。

(4)1892(明治25)年10月における、雄蛇ケ池の水面積
現在の雄蛇ケ池の水面積は、21.70haとされており (千葉県農林部耕地第2課・東金土地改良事務所)、「ザ・レイクチャンプ」もこれに従っている(※14)。
しかし、『官有地水面拝借願』『猟區設定願』「雄蛇ケ池絵図面」(fig.04-fig.06)では、各々「貮拾町九反歩」の墨書 があり、単位をa(アール)に換算すると(20.9×99.1736=)2072.7282a=20.72haとなり、 1892(明治25)年10月における、雄蛇ケ池の水面積は、20.72haであることが分かる。

(5)馬捨場について
先に掲げた、雄蛇ケ池絵図面(fig.06)に、3ケ所の「斃馬捨場」が記載されている。
四角と丸で囲んだ中に細かな黒点で示された「斃馬捨場」は北岸に1ケ所(焼谷津・ヤケヤツ=釣り人用語・ポイント名、の北側)、 南岸に2ケ所(現養安寺谷津堰堤の南西側=現況:藪、及び現養安寺谷津堰堤の南東側=現況:墓地の裏)が見てとれる。
「斃馬捨場」の用語は、雄蛇ケ池絵図面(fig.06)の作成された明治時代の絵図に見られ、例えば、 雄蛇ケ池にほど近い旧上総國山辺郡・現千葉市緑区大高町(旧高津戸村・同大木戸村入会)の「大木戸村高津戸村入会野字訳絵図」 1877(明治10)年(※13)にも、3ケ所の「斃馬捨場」が朱色で表現されている。

地方文書では「死馬捨場」も同様に使用され、例えば、旧下総國千葉郡・現千葉市花見川区犢橋(旧犢橋村)の 「村差出書上帳扣」1838(天保9)年(※15)に、「死馬捨場弐ケ所」が記され、 旧下総國千葉郡・現千葉市稲毛区稲毛(旧稲毛村)の 「明細書上帳」1844(天保15)年(※16)に、「死馬捨場壱ケ所 御座侯」が記載されている。
新しくは『東金御成街道史跡散歩』に、「(千葉県立若松)高校前バス停留所のところに五基の馬頭観音がある。以前、ここは "粗馬捨場(すまんど)"であり、昭和二十六年"一九五一"三月に松木清一建立の馬頭観世音"高さ六十cm、横三十二cm"などがある。」 (※19・124pp)とされる。
ただ、古い言葉「すまんど」に違和感があり方言を調べてみると、『手賀沼周辺生活語彙』に
うますてば [馬捨場]斃死、病死等の馬を埋める所。→「そおまんど」
そおまんど 斃死した馬を埋める所(各旧村々に<現区>一〜二カ所一畝以内の官地又は村有地があった)。 「そまひきば」「そまんど」とも。→「うますてば」
(※17・27pp,191pp)と出て、先の「すまんど」は「そおまんど」「そまんど」の転訛とも採れたが、 よしさん架蔵『東金御成街道史跡散歩』(※19)は初版のため「そ」と「す」の誤植である可能性も僅かに残った。
2012年07月10日、一縷の望みをかけ著者に連絡を取り趣旨を述べると、初めて気づかれた様子ながらただちに 「その箇所は、そとすの誤植である」由、ご返事を頂戴し、小さな棘も氷解した。

馬捨場(うますてば)は、死んだ農耕馬を葬った所で、現代ではその跡地が藪・森・公園等に利用され、 慰霊のため馬頭観音が祀られていることも多い。
馬捨場は、口語として使われる場面があるものの、文字としての使用や、地名として現用されることは少なく、 まして、跡地を宅地利用する事例は希なようだ。
しかし、愛知県には現在も住所をあらわす地名として、安城市東栄町馬捨場・西尾市今川町馬捨場・海部郡大治町砂子馬捨場が知られ、 八ヶ岳山麓に、馬捨場を冠した旧石器・縄文時代の集落跡遺跡「馬捨場遺跡」(長野県茅野市泉野小屋場)があって驚かされる。

冒頭、やや長い前置きに述べた御成街道の通る、上述の旧犢橋村「村差出書上帳扣」(※15・45-48pp)に、
「一 東金 御成道 當村長十九町五十八間
是は近郷萱田村 園生村 北柏井村 南柏井村 花嶋村 
當村 井野村 小竹村 上座村 生ケ谷村 物井村 
佐草部村 殿台村 西寺山村 東寺山村 飯郷村 
飯重村 宇那谷村 萩台村〆十八ケ村ニ而
御用之節道掃除仕侯事」
と記載され、1614(慶長19)年01月完成から、224年を経た御成街道の掃除は、1838(天保9)年現在も周辺の村々に 課されていたことが分かる。
千葉市稲毛区に一族の本拠を置く、よしさんのご先祖も御成街道の造成に加わり、その後の維持管理に加わったと考えられ、 四街道市の寓居から雄蛇ケ池に向かうたび、遠祖に思いを馳せつつ、御成街道を往来している。

【謝辞】
オンラインで自由に閲覧できる「近代デジタルライブラリー」を整備提供くださる、国立国会図書館関係者に感謝します
有益な調査結果を報告頂いた、千葉県立図書館メールレファレンス(千葉県立中央図書館千葉県資料室)に感謝します
突然の問合せに明快な回答を頂いた『東金御成街道史跡散歩』著者本保弘文氏に感謝します

【参考文献(よしさん架蔵書)】
(※01)原著:李 時珍(1653,承応癸巳02年):鶴及び鵠『本草綱目』和本,禽部・第四十七巻三丁表,四丁表,
六丁表〜七丁表,十五丁表〜十六丁表,武林錢衛蔵版,外題:新刻本草綱目,見返し:重訂本草綱目,
(※02)梁川星巌(1841):星巌先生五十歳小像『星巌集』和本,星巌甲集,浪華岡田群玉堂,[後刷り]
(※03)梁川星巌(1841):東金八鶴湖部分『星巌戊集』和本,巻二,浪淘集,玉池吟社,[後刷り]
(※04)編:近藤圭造(1875):鳥獣猟規則『掌中規則一覧』首篇,,北畠茂兵衛等,http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787547/29
(※05)上総國山邊郡大和村(1892):地方文書『官有地水面拝借願』和紙墨書一部朱書,本文2丁,雄蛇ケ池絵図面付,
(※06)上総國山邊郡大和村(1892):地方文書『猟區設定願』和紙墨書一部朱書,本文1丁,
(※07)埼玉県警察部(1893):狩猟規則『埼玉県巡査必携』埼玉県警察部(浦和町),http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/791111
(※08)編:福井淳(1895):狩猟法『郡区市町村役場公務全書』此村黎光堂,http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789655/27
(※09)野口如月(1918):文村『北相馬郡志』373-380pp,北相馬郡志刊行会(稲敷郡龍ケ崎上町),金参圓
(※10)原著:李 時珍,監修校註:白井光太郎,訳:鈴木眞海(1930):「鶴」「鵠」『頭註国訳本草綱目』第十一冊(介部・禽部)
,141-143pp,166-168pp,春陽堂(東京市),非売品,
本文は1637,寛永丁丑14年和刻本(京都)・図画は1653,承応癸巳02年和刻本(野田弥次右衞門版)を底本とする
(※11)山武町史編さん委員会(1986):「木原村土屋清吉鳥獣威し銃免許願」『山武町史』史料集近現代編,134pp,山武町,\5000
(※12)東金市史編纂委員会(1993):『東金市史』通史篇上六,20+1675pp,東金市,\6000
(※12a)東金市史編纂委員会(1993):『東金市史』別冊年表,362pp,東金市,\7000通史篇下七共
(※13)千葉市史編纂委員会(1993):「大木戸村高津戸村入会野字訳絵図」『絵にみる図でよむ千葉市図誌』上巻,576pp,V-202図,千葉市,\6500
(※14)よしさん(1996〜2012):「雄蛇ケ池」「鶴ケ城」『ザ・レイクチャンプ』http://lake-champ.com
(※15)千葉市史編纂委員会(1997):「村差出書上帳扣」『千葉市史 史料編8』,45-48pp,千葉市,\4500
(※16)千葉市史編纂委員会(1997):「明細書上帳」『千葉市史 史料編8』,308-311pp,千葉市,\4500
(※17)星野七郎(1997):「うますてば」「そおまんど」『手賀沼周辺生活語彙』27pp,191pp,崙書房出版(流山),\9500+税
(※18)本保弘文(1998):『調査研究房総の東照宮』102pp,暁印書館(東京),\1000+税
(※19)本保弘文(2000):『東金御成街道史跡散歩』233pp,暁印書館(東京),\1300+税
(※20)よしさん(2006):「明治時代の雄蛇ケ池周辺地形図」『亀山湖牛久沼ワカサギ情報』http://wakasagi.jpn.org/
(※21)千葉日報(2012):「印西に白鳥900羽飛来 新春の空、優雅に舞う」2012年01月11日,千葉日報社,
http://www.chibanippo.co.jp/c/news/local/66950
(※22)堀内洋助(2012):「ベニマシコ(紅猿子)新芽に映える」2012年3月30日,東京新聞,
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/amuse/bird/CK2012033002000114.html

【注】
『本草綱目』『星巌集』『星巌戊集』『官有地水面拝借願』『猟區設定願』『頭註国訳本草綱目』(※01〜06)から本稿への、写真複製・有線送信・本HP掲載公表 (fig.01-04,fig.06,)は、「ベルヌ条約」及び「万国著作権条約」並びに国内法「著作権法」を踏まえた合法行為です

発表:2012年07月11日(水)前牛久沼漁業協同組合顧問よしさん
「ザ・レイクチャンプ」シークレット・ポイント0001 雄蛇ケ池

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