【つくば市房内の地名起源考】
牛久沼が水面幅を狭め、いよいよ東谷田川の川筋に差し掛かる箇所が房内橋(fig.01)で、橋のネーミングは
房内の集落を由来とすることが容易に想像できます。
東西に架かる房内橋の北は、つくば市、南は龍ケ崎市と現在2市の行政界にあたり、
橋のネームプレートには「ぼううちばし」と記されています。
1897(明治30)年刊行の細見益見『茨城県町村沿革誌』(※01)に
『上下岩崎の2村を除いて、他の村(房内村も)は往昔新治郡にして、後、河内郡となったが、
その分界は明瞭ではない。
旧村名房内村は、1872(明治05)年区戸長制により小茎・若栗・菅間等と一小区になり、
1878(明治11)年郡区編制により上岩崎・下岩崎と房内の3村は総合され、
1884(明治17)年に他村と共に一行政区茎崎村となった。
上岩崎村・下岩崎村・小茎村は本村中の大村であり、各一字を取り茎崎村と名づく』(440pp-441pp・意訳:よしさん)と見え、
往古より、房内村は郡の境に立地したことがうかがえます。
音では、日本郵政グループの郵便事業株式会社の郵便番号検索で、
つくば市「房内」は〒300-1278「ボウチ」とされ、
昭文社の県別マップル8『茨城県広域詳細道路地図(1998年01月 2版5刷)』でも該当箇所「房内」に「ぼうち」のルビが振られています。
地元の牛久沼漁業協同組合理事らは「房内橋」を「ボージ橋」と発音し、語尾は「シに濁点」の話言葉が使われます。
1936(昭和11)年刊行の柳田国男『地名の研究』(※02)の
「三一 峠をヒョウということ」に『村の境に、通例立ち木の「標」を立て、武蔵等で「標」を榜示木(ぼうしき)と呼び、
生樹のかわりに削って白くした棒を立てた場合は榜杭(ぼうぐい)と言い、
木がなければその場所を榜示戸(ぼうじど)とも、法師土とも記し、訛って端戸(はしど)と書いたり、
橋はないのに橋戸と書くのも同様の場合である』(211pp・意訳:よしさん)と見え、
●東谷田川を望む台地の端という現地の地形
●明治時代以前より、房内村は郡の境に立地したこと
●文字では「ぼううち」「ボウチ」「ぼうち」ですが、音は「ボージ」と呼ばれること
等から、つくば市「房内」は「榜示(ぼうじ)」を起源とした「境」を意味する地名と思われます。
近隣の、坂東市(旧:岩井市)菅生沼南部に「法師戸」があり、地名の考察も楽しいものです。
【参考文献】
(※01)細見益見(1976):『茨城県町村沿革誌』.影印版,論書房,千葉県流山市,pp.440〜441.¥4800
(※02)柳田国男(1973):『地名の研究』.角川文庫7版,角川書店,東京,pp.211.¥200
(※03)よしさん(2008):『牛久沼(房内橋下)の動物プランクトン』.http://wakasagi.jpn.org/
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