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【いつから獲られ、釣られているのか】 ワカサギは太古より生息していたと考えられている。 では、ワカサギが生息していたことを示す最も古い記録は何であろうか(テーマ1)。 また、漁獲ではなく遊漁として釣獲された記録の古いものは、どの時代なのだろうか(テーマ2)。 ふと疑問に感じながら永いあいだ放置し、知っているようで、知らなかった2つのテーマについて、 よしさんの手元に集まった資料の限りにおいて、関東地方を中心に追求し、結論にせまってみたい。
【まず、古い記録をたどって見る】
<1885(明治18)年05月、ワカサギ(魚ヘンに新と記載)は、百反と称する網、サデ網、大徳網、でとる>
との記録が、
1885(明治18)年11月の「茨城県勧業雑誌(第42号)」に掲載された、河井貞一の霞ケ浦水産に関する
報告書にあることがわかる。
もっと以前の記録を探すと、
毛利梅園という江戸時代の本草学者の手稿本「梅園魚譜」(彩色・1843年成立・国立国会図書館蔵)に、
我先(ワカサギ)の図を発見できる。
一方、霞ケ浦・北浦産ワカサギは、江戸時代に麻生藩(現・茨城県)の年貢として
将軍家斉公(徳川 11代目)に治められ、賞味した将軍から公魚の名を頂戴した説や、
<公魚という国字は霞ケ浦の北、麻生の城主、新城直頼が、毎年将軍家へ
年賀に参上する時、 串焼きにしたのを献上し、将軍家御用の魚、御公儀の魚といったことから
作られたといいます。>
という、ワカサギは年貢ではなく手土産だったとする説(寺尾宗冬「釣魚漫筆」1984週刊釣りサンデー)
が知られている。
寄り道はそれくらいにして、もう少し以前は、どうであろうか。
<十月より翌三月迄河魚也。鯉、鮒、さい、うぐい、うなぎ、どじょうは取につかわせばあり。
うりかいになし。わかさぎ、丸太はうぐいの大き成うを也。尾頭かけて三尺余ある。せくろく腹あかし。>
印旛沼のほとり、佐倉藩士・渡辺善右衛門が1753(宝暦03)年頃、著した「古今佐倉真佐子」には、
当時の佐倉藩(現千葉県佐倉市)への海魚・淡水魚の流通が、上記のごとく細かく記録されている。
漢文で
<鮠 (略)江東別有2 若鷺(ワカサギ)者1 相似非2 一種1、 此亦美賞之>
と、でてくるのが、1697(元禄10)年、医者の人見必大が著した「本朝食鑑(7)」である。
同じく漢文で
<国栖クス(略)吉野桜落入レ 水作レ 魚、故曰2 桜魚1>
と見えるのが、1548(天文17)年刊行の「運歩色葉」であると、紹介しているのが、
先にあげた「魚の手帖」で、桜魚はワカサギの異名だ。
【遊漁として釣獲された記録】
やっと、1928(昭和03)年の「鮎釣及わかさぎ釣いはな釣やまめ釣(釣魚大全3川魚之釣)」(上田尚・洋々社)に、
江戸川・利根川等の「わかさぎ釣」が紹介されたのが、明確に遊漁としてのワカサギ釣り記録の最古級のひとつ
というテイタラクである。
<「常陸の霞ケ浦が本場で、夏から春さきにかけて、月の出る前や月入のあとに、帆びき網といふものを漁船につけて
、帆をかけて走って、あみは水の下層をひくやうに引いて行くんです。関西地方では、出雲の松江付近の湖水で
アマサギ、東北での八郎潟ではチカ、それからマハヤ、シラサギなんていふ所もあります。太平洋沿岸では
東京以北の潮入りの湖水や潟に居ますし、北海樺太、シベリヤにかけてとれます」
「寒い国だけですか」
「いやそれが、近年各地の淡水の湖沼にまでその種が移殖されて来まして、琵琶湖、若狭の三方湖、奈良県でも
試殖されていますし、淀川下流の寒中のハス釣の餌にかかることがあります。大体潮ざかいの水がよく合ひますので、
東京の川づりの本場の江戸川−利根川の分流で東京では、これを利根、本流は大利根といっていますが、
それへ入込んで来て、更に運河の堀だめや、川つづきの池などにもやって来るもんですから、東京の方々は
よく釣りに出かけます」>
【まとめ】
【注】 (※01)本稿は「なるほど!THEワカサギ大全U」(別冊つり人Vol.182 2004年11月29日発行、つり人社)に掲載承認しています。 同書(¥1200)では、「なるほど!THEワカサギヒストリー」の題名でダイジェスト掲載 されています。 2004年10月31日 よしさん (※02)【「完本なるほど!THEワカサギ大全」再収録にあたって】 本稿は「完本なるほど!THEワカサギ大全」(別冊つり人Vol.241 2008年10月25日発行、つり人社、¥1300、発売中)に 、ダイジェスト版「なるほど!THEワカサギヒストリー」として再収録されています。
2004年の発表以降、テーマ1については残念ながら新しい資料が発見できず、1548(天文17)年に留まったままです。 |