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【古地理からの考察】
関東平野の貝塚は、海から近い所に形成されたという考えから、縄文時代を4期×2系統の都合8種に細分し、時代毎の貝塚の分布を
プロットし海岸線を想定した、考古学研究者・江坂輝弥慶応大学名誉教授作成の図は、「神栖町史」上巻
(注01・21ページ)に掲載されている。
その中から、約5000年前の海岸線を取り出し、主要水系を残し、他の要素を大幅に省いた図が、下に示す
fig.01 「約5000年前の海岸線」である。
約5000年前は縄文時代後期にあたり、身近な所では加曾利貝塚(千葉市)等でその時代の復元家屋と生活の様子、
使用された道具類を知ることができる。
また、世界的にはモヘンジョ・ダロのインダス文明が栄えた時代とされている。
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本稿のテーマ「なぜ、牛久沼がワカサギの自然繁殖に適しているのか」を
解くために、fig.01 「約5000年前の海岸線」を詳細にご覧頂きたい。
図中に番号で、@涸沼(現存)、A北浦(現存)、B霞ケ浦(現存)、C長沼(干拓・消滅)、
D椿の海(干拓・消滅)、E印旛沼(干拓・一部現存)、F手賀沼(干拓・一部現存)、
G牛久沼(干拓・一部現存)、H菅生沼(現存)、I飯沼(干拓・消滅)、等を示した。
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fig.01 約5000年前の海岸線 A shoreline before about 5000 years.
江坂輝弥「関東地方の遺跡の分布と海岸線(1943)」を改変
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鹿島灘に開口部を持つ、古鬼怒湾が低地に沿って内陸深く広がっている。
神の池・外浪逆浦・与田浦は湾口の海中にあり、湖北古利根・中沼・菅生沼・鵠戸沼・野田池沼群も内湾の奥に位置
していたことが判る。
湾奥には、飯沼川・鬼怒川・小貝川・桜川・恋瀬川・巴川等の流入河川があり、汽水域を形成すると共に、
土砂を運び堆積作用を進行させた。
古鬼怒湾の海底には、塩化ナトリウムを含む栄養塩が沈降し蓄積され、湾内には海洋プランクトン(シオミズツボワムシ等)が、
湾奥には淡水プランクトン(ツボワムシ等)が生息の場を得ていたと推定される。
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「神栖町史」(注01)より以前の文献「利根川と淀川」(注02)に、利根川流域における弥生時代から江戸時代・
明治時代にかけての稲作文化伝播に伴う、海退と沖積層干拓による農地開発の歴史的展開がまとめられている。
古東京湾へ流入していた利根川を千葉県銚子へ向ける、江戸時代のいわゆる「利根川の瀬替・東遷事業」につき
従来の幹川論に対し、派川論を提唱されており、利根川中下流域の水郷一帯に興味を持つ釣り人に推奨したい。
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太平洋側におけるワカサギの自然分布南限は、千葉県が定説とされている。
ここで言われる千葉県とは、上記「約5000年前の海岸線」に示す古鬼怒湾エリアの現・千葉県側を指し、
利根川・手賀沼・印旛沼等に相当する。
先年、ワカサギを千葉県外来種生物リスト(魚類)原案に選出し掲載した専門家にはあきれるが、猛反省して頂きたいものだ。
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本稿のテーマ「なぜ、牛久沼がワカサギの自然繁殖に適しているのか」への回答。
なぜなら、牛久沼は堰き止め湖ではなく、今もワカサギが自然繁殖している霞ケ浦・北浦と同一起源の古鬼怒湾の一角を構成
した海跡湖だからである。
なるほど、八間堰を備え水は堰き止められ水位は管理されている。
しかし、八間堰による人為的管理は最近であり、約5000年間の何ほどにも当たらない。
関東地方に、ワカサギが約500年前より生息していたことを示す古い記録については、「ワカサギ、漁業と釣りの歴史考(500回の生と死を超えて)」
(注03)で検討した。
大正時代から昭和時代初期のころ、東京湾奥の中川・荒川等で釣れ始まったワカサギは、江戸時代の「利根川の瀬替・東遷事業」
により古鬼怒湾エリアから古東京湾エリアの汽水域へと、ワカサギが移動してきたものと推察される。
最後に「なぜ、牛久沼がワカサギの自然繁殖に適しているのか」を、「なぜ、印旛沼が〜」「なぜ、手賀沼が〜」「なぜ、外浪逆浦が〜」と
読替えれば、基本的には同様のロジックになる可能性の高いことを指摘しておこう。
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【参考文献】
(注01)「神栖町史」上巻 1988(昭和63)年03月31日、同編さん委員会 神栖町、816ページ、7000円
(注02)「利根川と淀川」 1975(昭和50)年01月25日、小出 博 中央公論社、中公新書384、220ページ、380円
(注03)「ワカサギ、漁業と釣りの歴史考(500回の生と死を超えて)」よしさん
2004(平成16)年08月18日、「亀山湖牛久沼ワカサギ情報」
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